人も地球も健康に。ヤクルト本社のホームページでは、商品情報、cm情報、宅配センターの検索や工場見学のご案内など、様々な情報を皆さまにお届けしていきます。 TwitterやFBなどで「いいね!」もお願いします! 高校ナンバー1の左腕投手と呼ばれ、2002年に東北高等学校からヤクルトスワローズにドラフト1位指名を受け入団した雄平選手。入団時の登録名は本名の高井雄平でした。 当維持の評価は日本だけでなく、メジャーリーグの球団スカウト 野球の魅力を多くの人に届けませんか? 高校ナンバー1の左腕投手と呼ばれ、2002年に東北高等学校からヤクルトスワローズにドラフト1位指名を受け入団した雄平選手。入団時の登録名は本名の高井雄平でした。, どちらかといえば、高井選手より雄平選手の名前の方が知名度はあるかと思いますが、投手から打者への転向・登録名の変更はなぜ行われたのか?, ヤクルト 2016 記事が参考になったという方は 2016TOKYO燕パワーユニホーム#雄平#swallowspic.twitter.com/MMpmgT3ffM, — プロ野球 限定・復刻・サードユニフォームbot (@bot87630863) July 28, 2020, 中学時代、シニアリーグの『緑東シニア』でエース・4番を務め、全国大会準優勝の実績を残します。, その中、東北高校を選んだ雄平選手ですが、入団してすぐにエースピッチャーとして最速140kmのストレートを活かし、その年甲子園に出場した仙台育英高校を完封するなど怪物ぶりを発揮しました。, 同学年には現在楽天イーグルスのエースピッチャーである岸孝之投手がいましたが、それ以上の評価を受け、投げてはMAX151Kmのストレート、打っては高校通算36本塁打を記録しました。, 甲子園出場はなりませんでしたが、のちに甲子園を沸かせた東北高校二年後輩のダルビッシュ有選手や田中将大選手を凌ぐほどの実力です。, 東北高校の監督も、歴代の卒業生と比較し「投げては後藤伸也以上、打っては嶋重宣以上」とたたえられていました。, 万を持してのドラフト会議、甲子園に出場していないにもかかわらずドラフト1位指名がかかるという、あまり例のない指名が大阪近鉄バッファローズ(現オリックス・バッファローズ)と東京ヤクルトスワローズからかかり、抽選の結果、ヤクルトより指名を受け入団を決意。, この年、エースピッチャーだった石井一久選手がメジャーリーグへ移籍した直後だったため、未来のエース候補として大いに期待された入団でした。, 高井雄平#報知高校野球 #高校野球 #野球#緑東シニア #シニアリーグ#東北高校 #野球部 #宮城県#東京ヤクルトスワローズ#雄平 pic.twitter.com/vpTcl9oIas, 1億円もの契約金を受け、球団からも期待され入団をした雄平選手。背番号は石井一久選手がつけていた16番を継承し、まさに次世代のエースにふさわしい待遇でした。, 入団して直後のシーズン、4月に早くも一軍に昇格し、2か月後のジャイアンツ戦では初勝利を記録。同年、6月28日に対広島戦では5回4失点ではありましたが、10奪三振をあげます。, 結果、シーズン通して27試合の登板で5勝6敗の成績でしたが、この年のセ・リーグ最多暴投数である12を記録するなど、不名誉な記録も残りました。, 翌年はウィークポイントである制球難を克服するため前半戦は2軍での調整をし、そのため一軍登板数は前年より減ったものの、後半戦では少ない試合数の中、4勝を挙げます。, 同チームの五十嵐選手や石井一久選手のように、荒れ球で球威が強い選手ではないため、チームの首脳陣もなんとか制球難を克服させたいと、雄平へ色んなトレーニング・指導を行いました。, しかし、成績は上がらず、トレーニングの弊害で雄平選手の能力自体が落ちていってしまい、投手としての価値も損なわれていきました。, 2006年に石井一久がメジャーから復帰するに伴い、背番号も変更になります。その年の10月12日対横浜ベイスターズ戦、投手・高井雄平にとって致命的な出来事が起こりました。, 最後のチャンスとされた先発抜擢でしたが、1回表の先頭打者石井琢朗にフォアボールを与えたのち、連続の暴投で石井を3塁まで進塁させると、3番内川聖一に投じたボールも暴投、まさかの1イニング3暴投という記録、ノーヒットで1点を献上してしまいます。, 異常なほどに真面目な性格がゆえ、アドバイスをすべて受け入れてしまい、考えすぎて今までのフォームを完全に見失ってしまったことが原因だったそうです。, 制球に重点を置きすぎた結果、本来ウリだったストレートの球速は140kmにも届かず、150kmの豪速球ははるか昔の出来事のようになってしまいました。, 結果、イップス(精神的な原因などにより自分の思い通りのプレーや意識が出来なくなる症状)にかかってしまい、キャッチボールもままならない状態になってしまいます。, 1日1高井雄平さん、今日は第四打席から。ホームラン出ましたね! pic.twitter.com/6fbNvs2vtC, 高校時代はピッチャーでありながらスラッガー顔負けの長距離砲として活躍していた雄平選手。, 二刀流のアイコンである大谷選手が活躍するずっと前、そもそも二刀流という言葉自体球界では実現していなかった時代です。, 投手としての自分も諦めきれませんでしたが、打者への転向も了承し、久々にバッターボックスに立った雄平選手。, サイドスローへのフォーム転向をして、なんとか投手として継続もしたいと直訴をしたものの結果は残せず。2009年秋季キャンプ、ついに打者転向をする決意をします。, 投手時代は足枷となった『真面目』というデメリットが、『真面目すぎるがゆえ』に努力を続ける才能へと変わり、来る日も来る日もストイックに練習を続けました。, 翌年、打者として目覚めるきっかけとなった、当時二軍の打撃コーチだった真中コーチと出会いがありました。, 真中コーチの現役時代のバッティングフォームが、雄平選手のスタイルにドンピシャにはまったことから、二人三脚で練習をしていきます。, 打者転向後のシーズンである2010年には規定打席に到達し、打率.283、4本塁打、35打点という成績に。, 「投手の時は高井だったので心機一転、気持ちを新たにしたい」と語り、この時から『投手・高井雄平』はいなくなり、『打者・雄平』が生まれました。, 投手として完全に踏ん切りをつける大きな決断をし、打者として生まれ変わる決意をするにあたって、登録名を変更した雄平選手。, 阪神・藤浪選手からホームランを打つなど開幕からレギュラーとして一軍で活躍していきましたが、その矢先、前十字靭帯断裂で手術を余儀なくされ離脱。, 投手として見放され打者として再び帰ってきた雄平選手は、逆境を何よりも強い力に変えることができたからこそ、怪我で野球が出来なくても、そのリハビリ期間腐ることなく、ストイックな性格でトレーニングを続けていきました。, 2018年、一軍での規定打席に到達し打率.318、得点圏打率はリーグ2位の.356にまで達し、現在ではヤクルトの外野手というポジションを堅持するほどの活躍を見せます。, — はるちゃん@低迷中 (@t0503_haruchan) July 28, 2020, ですが、周囲の期待が大きすぎた事もあり、のしかかる重圧と周囲からのアドバイスが真面目過ぎた『高井選手』を苦しめ、投手としての持ち味をどんどんと損なってしまいました。, そして打者への転向。まだ自分のどこかにあった諦めきれない投手という気持ちに決別をするため、『高井雄平』を捨て『雄平』として新しいプロ生活を歩んでいくことになったのです。, チームメイトであり監督でもあった古田選手も『苦しんでいる時の雄平を見ている、誰にも負けないくらい努力を続けてきた』と言われ、ダルビッシュ有選手からも『高井さんは尊敬する人』と誰からも認められるほどの努力家の雄平選手。, 「努力しても必ず報われるとは限らない。でも努力しない人間が報われることは絶対にない」, 波乱万丈の経験をし、努力し続けた雄平選手だからこそ言える、説得力がある言葉ですよね。, 怪我に泣かされることが多い雄平選手ですが、持ち前のストイックさで必ずカムバックし、何度も陽の目を浴びていって欲しいですね。. 本名及び2010年シーズンまでの登録名は高井 雄平(たかい ゆうへい)。 雄平(ゆうへい、1984年 6月25日 - )は、神奈川県 川崎市 宮前区出身のプロ野球選手(投手 → 外野手)。 左投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。. 東京ヤクルトスワローズ公式サイト。試合速報やスケジュール、チケット情報、イベント情報、ファンクラブ案内、グッズ情報、チームや選手の最新情報を掲載しています。 「TOKYOシリーズ」「TOKYO燕プロジェクト」「TOKYO燕日」 このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。. 雄平(ゆうへい、1984年6月25日 - )は、神奈川県川崎市宮前区出身のプロ野球選手(投手 → 外野手)。左投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。, 川崎市立有馬中学校から宮城県仙台市の東北高等学校に進学する。高校時代は、「高校ナンバー1の左腕投手」として、日本はもとよりメジャーリーグ(MLB)球団のスカウトからも注目された。高校時代の監督からは、「投げては後藤伸也以上、打っては嶋重宣以上」という表現で、プロ入りした先輩2人と比較されるほどの潜在能力の高さを評された(全国的注目度が低かったが、仙台都市圏の同学年には名取北高に岸孝之投手がいた)。現に、投手としてストレートで最速151km/h[2]を計測された一方で、打者として高校通算36本塁打を記録している[3]。また、2年下の後輩にダルビッシュ有がいた。, 2002年のNPBドラフト会議1巡目で、投手として大阪近鉄バファローズとヤクルトスワローズから指名。抽選によるヤクルトの独占交渉権獲得を経て、契約金1億円、年俸1,200万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は16で、登録名は本名の高井雄平。, 2003年には、4月22日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で一軍公式戦へのデビューを果たすと、6月11日の同カードで一軍初勝利。6月28日の対広島東洋カープ(広島市民球場)戦では、5回4失点10奪三振で勝利投手になった。一軍公式戦全体では、27試合の登板で5勝6敗をマーク。防御率は5.03で、セントラル・リーグ最多の12暴投を記録した。, 2004年には、シーズン前半を二軍で過ごした影響で、一軍公式戦への登板は9試合にとどまった。しかし、後半に一軍へ昇格すると、先発で4勝を挙げた。, 2005年には、開幕を初めて一軍で迎えるとともに、前年後半に続いて先発陣の一角を担った。4月3日の阪神タイガース戦(大阪ドーム)では3回表の初打席で能見篤史からバックスクリーンに放つプロ初本塁打を放つ。しかし、その直後に打ち込まれ敗戦投手となる。また、その後の試合でも与四死球の多さが災いして、6月に二軍へ降格し、シーズンを終える。, 2006年には、自身の背番号を22に変更した。MLBのロサンゼルス・ドジャースへ移籍していた石井一久の復帰に伴って、石井が復帰前に着用していた背番号16を希望したことによる。一軍公式戦では主に救援要員として36試合に登板したが、防御率は自己ワーストの6点台(6.51)にまで達した。6月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦では、7回表2死1・2塁の局面で登板したところ、福浦和也に投じた初球が福浦の側頭部を直撃。この投球が危険球と判定されたため、わずか1球を投げただけで退場処分を受けた。一軍公式戦でシーズン唯一の先発登板になった10月12日の対横浜ベイスターズ戦(明治神宮野球場)では、1回表に先頭打者・石井琢朗を四球で出塁させ、3番打者・内川聖一に対しては3つの暴投を記録。1イニング3暴投のNPB一軍公式戦最多タイ記録を達成したばかりか、石井を一塁からノーヒットで生還させる羽目になった。, 2007年には、高津臣吾の背番号を11から以前着用していた22へ変更したことに伴って、自身の背番号を41に変更。制球力を上げる目的で、投球フォームもノーワインドアップからセットポジションに変更した。一軍公式戦では、救援陣で唯一の左投手として、チームおよび自身最多の52試合に登板。7月16日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で一軍公式戦初セーブを挙げたほか、15ホールドポイント(3救援勝利12ホールド)を記録した。ショートリリーフ中心の起用ながら、防御率は5.19にまで到達。通算で6敗を喫したほか、シーズン終盤には一軍から遠ざかった。, 2008年には、新任監督の高田繁の方針で、先発要員としての調整を再開。増渕竜義・由規・加藤幹典らと一軍の先発ローテーション入りを争った。しかし、課題の制球難を克服できず、最大の持ち味であったストレートの球速も140km/hを下回るなど、極度の不調に見舞われた。結局、一軍公式戦への登板は1試合(投球イニング2/3回)だけで、シーズン終盤の9月下旬から鬼崎裕司と共にハワイ・ウィンターリーグのワイキキ・ビーチボーイズへ派遣された。, 2009年には、投球フォームを大幅に改造したが、前年に続いて一軍公式戦への登板は1試合にとどまった。イースタン・リーグの公式戦でも振るわなかったことから、シーズン終盤の9月30日には、フェニックスリーグから野手に転向することを首脳陣から打診。高井自身は、打診を一旦了承しながらも、後にサイドスローへの転向による投手の継続を直訴した。しかし、シーズン終了後の秋季キャンプ中からは、野手としての練習を本格的に始めている。, 2010年には、一軍公式戦への出場機会はなかったが、イースタン・リーグの公式戦で規定打席に到達。打率.283、4本塁打、35打点という成績を残した。, 2011年には、登録名を名前だけの「雄平」に変更。イースタン・リーグでは、開幕から7月中旬までに、打率.348、5本塁打、24打点という好成績を残していた。その間に打率トップの座を維持していたことも背景に、オールスターゲーム直前の7月11日には、野手として初めての出場選手登録を果たした。実際には一軍公式戦での野手デビューに至らなかったが、イースタン・リーグ公式戦では、規定打席に到達した打者ではトップの打率.330を記録した[4], 2012年には、野手として初めて開幕を一軍で迎えると、巨人との開幕カード第2戦(東京ドーム)に代打で出場。野手転向後の一軍初安打を記録。5月に出場選手登録をいったん抹消されたが、9月に一軍へ再び昇格すると、シーズン終了まで「1番・中堅手」に定着した[3]。, 2013年には、3月30日の対阪神タイガース戦(神宮)で藤浪晋太郎から6回裏の打席で野手転向後初であり自身8年ぶりとなる本塁打を放つなど、開幕から外野手のレギュラーとして一軍で活躍[5]。しかし、13試合目の出場になった4月17日の対中日戦(神宮)で、外野守備中にジャンピングキャッチ後の着地で右膝を負傷。その後の診断で右膝前十字靱帯を断裂していることが判明した[6]ため、5月10日に靱帯の再建手術を受けた[7]上で、残りのシーズンをリハビリに費やした。, 2014年には、開幕から一軍に復帰。当初は「2番・中堅手」として起用されていた[8]が、打線の組み替えによって、すぐに5番打者へ定着した。4月終了時点で打率は.224だったが、外野手出身の小川淳司監督からの助言をきっかけに、フルスイングを心掛けたことで徐々に復調[9]。5月28日の対北海道日本ハムファイターズ戦(神宮)では、先発投手として登板した大谷翔平から2本の本塁打を放ったことで、シーズンの通算本塁打数が自身初の2桁(10本)に到達した[10]。同月は、打率.364、8本塁打、19打点、長打率.646という好成績で、月間MVPを初めて受賞[11]。投手として同リーグの一軍公式戦へ登板した後に野手へ転向した選手の受賞は、1993年9月の仁村徹(中日)以来2人目であった[12]。7月には、故障で戦線を離脱したウラディミール・バレンティンに代わって4番を務めた[13]ほか、セントラル・リーグの監督推薦選手としてオールスターゲームにプロ入り後初めて出場した[14]。一軍公式戦全体では、141試合の出場で、打率.316、23本塁打をマーク。外野手として、セ・リーグのベストナインにも初めて選ばれた。シーズンオフの契約交渉では、2度にわたる交渉の末に、この年のNPBで最高の昇給率(380%)による年俸(推定6,000万円)で契約を更改した[15]。, 2015年には、オープン戦の期間中に開かれた「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」で、野球日本代表のトップチームに初めて招集[16]。3月10日の第1戦に「7番 中堅手」で先発出場した[17]。3月11日の第2戦には途中出場している[18]。レギュラーシーズンでは、「4番・中堅手」として一軍公式戦の開幕を迎えた。後に4番を外れるなど、シーズン全体の成績は低調。打率(.316→.270)、本塁打(23→8)、打点(90→60)のいずれも、前年を大きく下回った。しかし、10月2日の対阪神戦(神宮)では、同点で迎えた11回裏2死1・3塁の打席で能見篤史から安打を記録。チームは、この適時打によるサヨナラ勝利で、14年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。ポストシーズンでは、クライマックス・シリーズ4試合で打率.333を記録するなど打撃が好調で、チームの日本シリーズ進出に貢献。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも5試合に出場したが、打率が.150と振るわず、チームもシリーズ制覇を逸した。レギュラーシーズン中の7月16日には、第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出されたことが発表された[19]が、後の選考に残らなかったため、日本シリーズ終了後のプレミア12には出場していない。, 2016年には、一軍公式戦の開幕を「5番・右翼手」として迎えたが、左側腹部筋挫傷で7月27日に出場選手登録を抹消。9月上旬から一軍へ復帰したものの、セ・リーグの規定打席には若干及ばず、打率3割にもわずかに届かなかった。, 2017年には、一軍公式戦の開幕から40試合で4番打者を任されるほど好調だった。しかし、6月28日の対巨人戦(福島県営あづま球場)の打席でファウルを放った際に、右手の有鉤骨を骨折[20]。チームのシーズン最終戦で一軍公式戦へ復帰したが、一軍公式戦への出場は71試合、本塁打は2本にとどまった。打席数もセ・リーグの規定打席を大幅に下回ったが、3シーズン振りに打率3割(.306)を記録している。, 2018年には、MLBへ移籍していた青木宣親が、8シーズン振りにチームへ復帰。春季キャンプ中には、青木を中堅手として起用することを前提に、前年の正中堅手・坂口智隆と並んで一塁手へのコンバート候補に挙げられていた[21]。レギュラーシーズンでは、「5番・右翼手」の座を堅持し、左投手の先発が予告された試合にスタメンを外れながらも、一軍公式戦には124試合への出場で、3年振りにセ・リーグの規定打席へ到達した。さらに、4年振りの2桁本塁打(11本)と自己最高の打率.318をマーク。得点圏打率は、リーグ2位の.356にまで達した。シーズン終了後の契約更改では、入団16年目(打者転向9年目)で初めて1億円で更改した。投手としてNPBの球団に入った選手の年俸が、野手転向後に1億円まで達した事例は、石井琢朗・福浦和也・糸井嘉男に次いで4人目である[22]。, 2019年は6月、7月にスタメンから外れる試合もありながら131試合に出場、打率.273、12本塁打、56打点をマークし、年俸は現状維持となる1億円でサインした[23]。, 投手時代には、左腕からストレートで最速154km/h[24]を計測した速球派投手で、スライダー、カーブ、フォークといった変化球も投げていた。プロ入り後は制球難に悩まされ、一軍公式戦での登板試合では、1試合平均の与四球率が5.0を上回ったほか、死球・暴投・悪送球を連発することが多かった。ちなみに、高井自身は、打者転向後に「プロに入って驚いたのが、ストライクゾーン(が極端に狭くなったように感じられること)」と述懐。投手時代の晩年には、上述のようにストレートの球速が落ちて、得意のスライダーまで思うように曲がらなくなるほど、投球の感覚が鈍っていたという[3]。, 野手としての能力も非常に高く、プロ入り後も投手時代に公式戦で本塁打を放つほど非凡な打撃センスを持ち合わせていることから、2009年のフェニックスリーグには投手登録のまま外野手として出場。リーグ閉幕後の秋季キャンプから、外野手へ正式に転向した。もっとも、7年間のブランクは想像以上に大きく、転向当初は「ど真ん中(のストレート)を普通に振っているのに(バットに)当たらなかったので、とにかく(練習でバットを)振りまくった」という[3]。, ヤクルトで野手転向4年目の2012年には、外野手登録のまま救援投手にも起用する「二刀流」の構想があることが一部で報じられた。翌2013年からNPB一軍公式戦の延長時間制限が撤廃されることも見越した構想で、当時の小川淳司監督から、「二刀流」での起用を打診されたこともある。実際には、「野手としてのプレーに専念したい」との理由で打診を固辞したため、転向後の公式戦に投手で起用されたことはない[25]。, 手動計測ながら、50m走で最速5秒8を記録するなど俊足の持ち主でもある[26]。守備面では、元投手らしい強肩を武器とした守備を披露する。, 実父は中学校、実母は小学校の教師。兄・大輔はアクロバットダンサー・大道芸人。タレントのベッキーとは、出身の小学校・中学校が同じで、いずれも1学年先輩に当たる。このような縁から、ヤクルトへの入団が決まった際には、ベッキーから直筆サイン色紙が贈られている。, BREATHEの宮田慧は、中学生時代に所属していたリトルリーグのチームメイトで、高井と同様に神奈川県内から東北高校へ進学。このような縁から、ヤクルト入団後の2014年には、BREATHEの楽曲『Tomorrows』を登場曲に採用していた。, 2015年までの応援歌の歌詞は「「高」き理想を目指して 熱き血潮を「井(わかし)」て 君よ「雄」々しく羽ばたけ 地「平」の彼方」と、カギ括弧内を合わせると、「高」「井」「雄」「平」と読める様になっていた(2016年から歌詞変更)。, 実際には、最終規定打席に3打席足りなかったものの、打率.345を記録していた楽天の, http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/baseball/npb/2014/columndtl/201406200006-spnavi, http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140704-1328279.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20140703-1328151.html, ひかりTV 4K GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表 第1戦 2015年3月10日(火) 東京ドーム 打席結果・投打成績, ひかりTV 4K GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表 第2戦 2015年3月11日(水) 東京ドーム 打席結果・投打成績, トップチーム第一次候補選手発表!11月に行われる「WBSC世界野球プレミア12」へ向けて65名が名を連ねる, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/02/18/kiji/K20130218005222790.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=雄平&oldid=80398809, 初勝利:2003年6月11日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、4回裏に2番手で救援登板、3回無失点, 初安打・初打点:2003年5月7日、対読売ジャイアンツ7回戦(明治神宮野球場)、4回裏に, 1試合4二塁打:2017年5月7日、対横浜DeNAベイスターズ9回戦(横浜スタジアム) ※史上12人目. プロ野球 東京ヤクルトスワローズ 雄平のプロフィール、個人成績をお届けします。 ... 1984年6月25日(36歳) ... 投打 左投げ左打ち ドラフト年(順位) 2002年(1巡目) プロ通算年 18年 経歴 東北高(甲)-ヤクルト

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